木村です

師ならずとも駆け抜けてます。いやホント12月が過ぎるのが早すぎて、先日まで「まだ卒論の提出まで55日あるや?」とか言っていたのが「うわ、あと40日ねぇじゃん!?」という事態に。
誰か私の失われた時間を返してください。


そしてそろそろ真面目に、大古と木村以外の書き込みが欲しいです。ふぅ。


先日大古部長のエントリーにも自分の卒論にも絡むのですが、次世代ゲーム機ネタ。
一部で「Wiiのコントローラーのストラップがプレイ中に千切れ、コントローラーが吹っ飛んでいった」あるいは「
プレイ中にコントローラーがすっぽ抜けて液晶テレビが破壊された」など騒ぎになっているようです。ただ任天堂のゲーム機ってアホみたいに頑丈なのが有名で。
・DSはエベレスト山頂で無事起動(一緒に持っていったMP3プレイヤーとPCとラジオは壊れた)
ゲームボーイは床に投げつけられても起動した(というか、それが発売前の耐久テストだった)
ゲームボーイはショットガンで撃たれても起動した
ゲームボーイは爆撃後の焼け跡から見つかっても起動した
など、もはや冗談なのか本気なのかがわからなくなりそうですが、基本的にはいずれも本当のようです。


そんな任天堂なので、Wiiのストラップについても、それなりの(それなり、と言っても普通の人間から見たらjに非常識な)非破壊検査してるんじゃないかな、と思うんです。そんなストラップが千切れる理由について考えてみました。
1.ユーザーが「任天堂の非常識な想定」を上回る非常識な使い方をしている
2.ストラップに関しては携帯ストラップ程度でいいやと油断
3.ソ○ーやMSの陰謀
ま、3番は冗談だとして(一応、冗談ということにしておきます)
2番はどうか。
そもそも「腕に装着して使いましょう」って話を任天堂自身が振っているので、可能性としては薄いでしょう。


あ、ちなみに任天堂は携帯のみならず据置も結構頑丈らしくて。
http://www.youtube.com/watch?v=VOMsT1ebQC4&eurl=
暇な人は上の動画をどうぞ。PS、XBoxGCの耐久性実験です。
内容は:
Lv.1 ダンベルを投げ落とす
Lv.2 スレッジハンマーでふっとばす
Lv.3 2階から投げ落とす
ちょっと冗談みたいな光景が広がっています。いろんな意味で。


話が逸れましたが、やっぱり「想定外なまでに異常な使い方をする奴が少しいた」というのが正しい認識なのかな、と思わざるを得ないのですよね。だいたい100件あったそうです。100万台の出荷なので1万分の1。これを多いと見るか、少ないと見るか。出荷した製品の初期不良率だとしたら、かなり高いかもしれません。ただ、誤った使用による問題だとしたら、1万分の1かぁ、という気もします。ま、そこら辺は感覚的な問題もあるのでしょうが。


とはいえ、結局ストラップの太さを1.6倍にすることにしたようです(0.6mmから1mmへ)。無償交換もしているようなので、心当たりがある人はhttp://www.nintendo.co.jp/wii/news/strap.htmlを参照しましょう。
ちなみに、個人的にはWiiのストラップが切れることよりも、すっ飛んだコントローラーがすっ飛んでもTVやら窓ガラスやらを破壊しながらも平然と動くことに驚きを覚えます…。

大古です。
あまり木村氏や私ばかりが投稿するのも良くないでしょうが、二週間以上更新がゼロなのも寂しい気がするので。


所用があり、府中の運転試験場に行ってきました。年末だからか非常に人手が多く、長蛇の列に並ぶ羽目になったのですが、それ以上に手続きの合間の待ち時間が長く、時間潰しのために持ち込んだ新書が途中で読み終わってしまうほどでした。
時間潰しと言えば、最近はいい大人と思しき年齢の方でも、次世代携帯ゲーム機を電車内や公衆の面前で出して遊んでいる姿をよく見かけます。ゲームもすっかり市民権を得たのだなあ、と感慨深いものがあります。私は両方とも持ってはいませんが、持っていたとしても恥ずかしくて外ではとても遊べなさそうです。


ところで、府中の運転試験場の入り口のすぐ側には、「献血車」が常時横付けされています。事務手続きの合間の暇な時間に、献血をされている方が結構多くいらっしゃいます。しかし「献血車」なので、施設としてはあまり整ったものではありません。医師の方と機械だけで、最低限の設備で稼動しています。
一方、新宿や有楽町にある、ビルの一室に作られた「献血ルーム」では、ハーゲンダッツのアイスは出るし、ソフトドリンクは飲み放題、お菓子も食べ放題、と至れり尽くせり。入浴剤などの景品までもらえる上、献血するとポイントが溜まっていきます。溜めると何がもらえるのかは、知りませんが。


両者の、我々消費者に対する態度には大きな温度差があります。新宿や有楽町の方は上記のように「何とか来て下さい」オーラが漂っていて、常に呼び込みのお兄さんが外で声を張り上げてますが、府中の方は、「献血に来たければ、どうぞご随意に」という感じ。ただ本来、献血という行為は我々にとってそれほど面白おかしくて快適なものではないので、前者の方が血の貰い手の姿勢としては理に適ったものでしょう。
府中の献血車が客引きあるいは「付加価値」の提供に積極的でないのは、冒頭で書いたような「時間潰し」の機能を多分に受け持っているからで、試験場付近には遊戯施設等が無いことと関係があると思います。「待ち時間暇だし、他にすることも無いし、たまには献血でもするか」という人は少なからずいるから、献血車としては、特に消費者にサービスする必要はありません。
しかし献血ルームの方は、付近に書店やCDショップなど、いくらでも時間を潰せる施設があり、消費者には膨大な選択肢があります。献血ルームは、他の無数の施設との「仁義なき戦い」、熾烈な競争に曝されている。よって、敢えて献血する、という行動を取ってもらうため、何らかのサービスを用意する必要があるのです。


・・・わざわざこんなことを書くのは、これがビジネスの世界と非常に似通ったケースと思ったからです。府中の献血車が上記のように比較的楽に血を集めることができるのは、それが「独占状態」にあるから。もし、試験場の付近にもっと楽しく時間を潰せる施設、例えばゲームセンターや、それこそブックオフなどができれば(そういう施設の建設はあの付近では制限されているのかも知れませんが)、献血車としては態度を改めざるを得なくなるでしょう。否応無く「時間潰し」機能を巡っての競争に放り込まれるからです。その時は、ハーゲンダッツや入浴剤の出番かも知れません。
同様の例をビジネスの世界に求めれば、フォードが該当するのではないかと思います。フォードが「欲しい色の車は何でも手に入る、ただしそれが黒ならば」という状況にあぐらをかいてて平気だったのは、市場が自社のほぼ独占状態だったからでしょう。GM等の登場と競争の導入によってそうも言ってられなくなったから、色を増やしたり多品種生産に切り替えたりして(遅れたけど)、企業体質のカイゼンに努めるようになったのだと思います。


それにしても、献血は現代の相互扶助体制の一環として、なかなか貴重な機会だと思います。我々現代人の少なからぬ部分が恐らく心の底では持っているであろう、ボランティアへの欲求、公への奉仕精神のごときものを、かなり手っ取り早く満たしてくれるからです。
明治初期、徴兵制を分かりやすく説明するため「血税」という言葉が作られたとき、人々は文字通り「国に生き血を吸われる」という意味だと勘違いし、暴動が起きたそうです。そうした真っ正直で極めて素朴な明治の人々と、自ら進んで血を提供している我々を比べてみると、かなり隔世の感があって面白いですね。


まあ、差し出した自分の血が何に使われるか知るすべはありませんが、もしかしたら交通事故で大怪我を負った人の命を救うことになるかも知れないし、血友病患者の助けになるかも知れません。それに、自分の血の健康状態も教えてもらえるので、献血は結構いい経験になると・・・思います。

大古です。
二日前に「007」のシリーズの方向性等についていろいろと書いたわけですが、トラックバック付加以降に自分が書いた文章をもう一度読んでみると、脊髄反射気味でかなり見苦しいですな。言い訳や負け惜しみになるとかなり見苦しい文章になるので、控えた方が良さそうです。


さて、見苦しいと言えば、大学構内にニョキニョキ生えてるいちょうの木。あれを見てると、「うわあ、見苦しいなあ」と思いませんか?
何が見苦しいかって、私は12月になってからはまだ大学に行ってないのですが、11月末になっても黄色い葉っぱがたくさん付いていること付いてること。暦の上ではほとんど冬で紅葉の旬はとっくに過ぎたのに、葉っぱがまだ名残惜しく秋の色のままで、枝におめおめとくっ付いているのが何とも見苦しい。ぎんなんが臭いのは繁殖行為の一環だからいいにしても、葉っぱがいつまでも老醜をさらして残っているのは、違和感を覚えます。
私は大学に行くときに自転車を使っているので街路樹を毎日観察しますが、中には葉っぱがまだ緑色のいちょうさえあります。もちろん、日照時間の関係や暖冬の影響などもあって、葉っぱが散らないのはいちょうの本意ではないのかも知れませんが。まあ、温暖化等の影響で不可抗力であるにしても、見ている人間としては「もう冬なんだからさっさと散っちまえ」と思ってしまいます。


百人一首のかなり有名な歌に
「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀友則
 

と詠われているように、日本人は古くから、自然における美しいもの「そのもの」だけでなく、美しいものがいかに散っていくか(あるいは死んでいくか)という過程に注目し、その引き際も美しいものを愛でてきたように思います。代表格は桜ですね。夏なら蝉、秋なら紅葉が、多分そうしたものに該当しそうです。そうして潔く散っていく自然を尊ぶ姿勢が、無常観とかもののあはれと言った、日本人独特の価値観を生むことにも繋がったのでしょう。もちろん、桜や紅葉は散ったからといって、別に死ぬわけではありませんが。
桜や紅葉を日本人がことさらに大事にする理由を突き詰めて考えれば、その美しさからというのももちろんですが、「しづ心なく」散って行ってしまうものに深いシンパシーを感じ、儚い自分たちをそこに重ね合わせる、という部分の方が大きいのではないかと思います。裏を返せば、桜や紅葉のように美しいものであっても、いつまでも散らずに残っていたら疎ましく思えてしまうはずです。


この、「美しい(目立つ)けど引き際はあっさりとしていて、潔くさっさと散っていく」ものを尊ぶ風潮は、自然のみならず日本人の好きなものの多くに通底している要素である気がします。源義経織田信長石川五右衛門赤穂四十七士などの人物、そういえば「あしたのジョー」もそんな感じです。


ただ、最近の新聞などを見ていると、一時期もてはやされた人に、「引き際がどろどろしていて見苦しい」人が多い気がします。側近に粉飾決算の罪を全てなすり付け、自分は「知らなかった」で通そうとしている某IT企業の元社長とか、談合の罪を認めることになるからといって辞職でなく「失職」しようとしていた某知事とか。
こういう人たちは何となく、冒頭のいちょうの黄色い葉っぱに通じるものがあるような気がします。もう出番は終わったのにいつまでしがみ付いてるんだよ、って感じで。特にこの元社長は、一時期メディアの寵児となり、ものすごく輝いていた人なのだから、引き際も桜のようにすっぱりと、何のてらいもなく済ませてくれれば良かったのに、と思います。そうすれば、閉塞していた社会に閃光のように現れて、何かいろいろと既成概念をぶっ壊すようなことをしてから颯爽と去っていった稀有の人として、我々日本人の心に少なからず良い印象を残せたのではないでしょうか。そういう人こそ、まさに無常観を体現した存在として「美しい」のだと思います。


そこまで戦略を練った上で身の振り方を考えるのは、その人物にとっては「想定の範囲外」だったのかも知れませんが。

キムラです

我らが大古部長から「キムラはWiiについて書け」と言われたので、雑感を書こうと思います。
ちなみに、大古にはトラックバックが送信されてます。
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061202
せっかくなので現代インターネットの粋を体験して下さい。トラックバックについては以下引用したので参照して下さい。おいらもあまりこのへんのこととかRSSとかについての技術的な話は詳しくないです。使えるけど。

 ウェブログ(ブログ)の機能の一つで、別のウェブログへリンクを張った際に、リンク先の相手に対してリンクを張ったことを通知する仕組みのこと。

 ウェブログ作者が別のウェブログの記事を参照して自身のサイトにコメントを掲載するような場合、元の記事へのリンクを張るのが一般的だが、単にリンクしただけでは元の記事の作者はどこからどうリンクされているのか容易に知ることはできない。トラックバックリンク元サイトに「このような記事からリンクを張った」という情報を通知する仕組みで、リンク元記事のURLやタイトル、内容の要約などが送信される。トラックバックされたサイトはこの情報を元に「この記事を参照している記事一覧」を自動的に生成することができる。
http://e-words.jp/w/E38388E383A9E38383E382AFE38390E38383E382AF.html


で、発売されました。Wii
買ってませんWii
なぜか


Wiiが欲しいという欲望

(純粋にお金が無い。
×
卒論終わらなくなる)

買わない。
という素敵な式が立ってしまったのです。自分の中で
いえ、本当はお金の問題じゃないんです。ゲームを始めると延々とやり続けるその軟弱な根性なんです(人として終わってる)。本当にゲームっ子だと思います。最近は同じ理由でDSもPSPも眠ってます。PCゲームも手をつけてません。

でも


orz
先生…Wiiが…欲しいです。

勢いあまってネタ画像まで作っちゃいました。
ブログにはこのように画像も貼付けられます。
(正確にはファイルを指定→アップロード→リンク、という作業をワンタッチでやってくれるだけ)

いつからこんなに自制が効くようになってしまったんだろう。じっと手を見る。



ちなみに「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称「ほぼ日」)にWii発売前夜体験レポートがあがってますよ。
http://www.1101.com/wii/index.html
いいなぁ。糸井重里任天堂と仲良しだもんなぁ。

糸井重里任天堂の絡みは、ファミコンの頃、いわゆる任天堂商法が世間で叩かれてるときに糸井さんが「いや、あの会社は凄い」とテレビで言ったことが当時の山内社長の目に留まったときからだとか。マニアックなところだと、ゲームボーイとかバーチャルボーイ、64の名付け親をやってたハズです。マザーシリーズのプロデューサーもやってて、そっちが有名かな。他にも「ほぼ日」の中で任天堂の現社長・岩田さんと対談してる記事があがってたり。以前はNHKを門前払いにする会社だったのに、岩田体制になってから随分と任天堂は広報がオープンになった気がします。正確に言えば、自分から発信するタイプの広報になったというべきですが、でもメディアの活用方法としては正しい気がします。


mixiWiiコミュニティにも、購入した人のレポートがちょこちょこ上がってます。mixiにアクセスできる人は覗いてみるといいんじゃないかな。どうも最初はコントローラーの初期設定に手間取り気味の様子。あのワイヤレスなヤツがキモだけに、そこで難儀すると「あ、ちょっと任天堂らしくないな」と思ってしまうのですが。セットアップが終わって遊んでみた感想を見ていると、ああ、ちゃんとした玩具を作ったんだなと安心しました。
ただ、「子供が使える!」をコンセプトに製品開発を突っ走ってきたのがWiiにきて「大人がセットアップして子供と一緒に遊んで!」に変わったのかなぁ、と少し残念。まぁ「お子様お断り!」な某PS3とかよりはマシだし、それで親子がワイワイやするなら、それは結構なことだという考えもアリですかね。
伝聞でしか知りませんが、WiiにはMiiという機能がついていて、まずは自分の似顔絵セットアップから出来るそうです。そんで、そこでセットしておくと例えば「Wiiテニス」のプレイヤーの顔が似顔絵に置き換わるとか。そのアイディア自体はスーパーファミコンくらいからPS2まで、単体のソフトとしてはずーっとあったものですがそれがハードに移った感じです。また、コントローラーにそのデータが収納されるらしく、友達の家に遊びに行くのにコントローラーとソフトを持って行けば自分のデータが持ち運べるというところですかね。今まで、もちろん一家庭に4本とか、最高だと8本とかコントローラーがある例もありましたが、基本的には1本か2本しか無くて、みんなでコントローラーを持ち寄って多人数ゲームはやってましたよね。メモリーカード+コントローラーじゃなくて良くなったのは綺麗にニーズを解消した形なんじゃないかと純粋に評価しています。
コントローラーについて言わせてもらえば、本体に一本付属、「初めてのWii」というソフトに1本付属だそうなので、基本的にはそれをセットで買うことが前提のようです。コントローラーくらいケチケチせずに2本バーンとつけて欲しかった、というのは正直なところ。
だって基本的にWiiって複数人でワイワイやる路線でしょ、売り込み方としても、ソフトの初期ラインナップとしても。くっつけて25000円は無理だったのかなぁと思う。絶対それでも黒々と黒字が出るという確信を持って、思う。岩田社長とか宮本さん(ゼルダ作った人。今は専務)とか、カッコいい思想を語るなら、そこは頑張ってこだわって欲しかったのです。


以下は何の裏付けも無い個人的な観であり勘なんで卒論には載せられない内容なのですが、Wiiは売れる。
少なくとも、PS3が売れない。
それは実際動いているソフトを見てみてというが1つ。
任天堂が綺麗にコンセプトを打ち出せてサードパーティーのことまで巻き込んでいるのに対して、PS陣営では組織の論理が先行して明らかにユーザーを放置してグダグダを示していることが1つ。
PS2帝国はWii王国と併存する。
でもPS2のモーター周りとかに寿命が来たところでPS3を皆が買うかは、そのときのPS3の値段次第。PS3が通説では一台あたり3万超の赤字、その上CELLの量産効果があがる見込みは薄く(後述)、ブルーレイもプレイヤー・ライターとして一般家庭に普及するにはほど遠そうなので(+ブランクメディアが高すぎる)値下げは絶望的。19800円未満で薄型PS2が買えるなら、PS2ゲーを継続して遊びたい人たちは「PS2をもう一台」と買い替えるんじゃないかな。どうだろう。少なくとも自分の身辺ではヘビーユーザー、ゲーマーであるにも関わらずPS2が駄目になったらPS3へと買い替える、という声は聞かない。
まぁもっとも、PS3で一部のPS、PS2ソフトが非互換であると指摘されたときでも落ち着き払って「PS、PS2ソフトの一部互換性が無いのは不具合ではなく仕様。新しいハードなんで、ユーザーは我慢してください」と言い切ったソ○ー(互換性に関して詳しくはhttp://wiki.livedoor.jp/yuuyaap1/d/damePS2list1コチラへ)。PS3を普及させたい一心でPS2を生産停止するという素敵なシナリオもある気もするんだけど。PS2も本体は儲からないから、一本化してしまえ、という論理が今の○ニーでなら成立しそうで怖いですね。
基本的にSCEは億単位でPS+PS2を売ってて売り上げは伸びているのに利益率が悪すぎるので、なんらかの処置が取れないとホントにソニ○本体への致命傷になりうる。久夛○木さんが退いて、もう少しバランス感覚のある人連れてくれば立て直しは出来ると思いますが。実際久夛良○さんは会長に退いたみたいだけど、まだ代表権あるし、あの人の業績やらキャラクターを見ている限り、実質的には院政が敷かれるんじゃないかな?


他にもPS3周りは最近強く思うところが2つあって。
1つは、発売直前の中途半端な値下げは誰がなんのためにしたのか、ということ。
どうせ初期ロットが20万台くらいしか揃わないのが予測できたんだろうから、当初の6万ちょいで発売しちゃえば良かったのに。○ニーの初期ロットはコアゲーマーと信者しか買わない。そしてその両者は全世界でゆうに20万人以上存在する。なので、6万だろうが8万だろうが、間違いなくハケたはず。20万台×2万円で差益が40億。予定されてる赤字(再来年でSCEは▲1000億円もありうるとか…)を考えたら微々たるものかもしれないけど、でも明らかに逃す必要の無かった利益ではないだろうか。ゲーム機が半年くらいで値下げするのは珍しくないから、半年後に台数が揃ったところで初期ロット不具合を直しつつ値下げすればよかった。最初に買うのは姑みたいなヘビーユーザーや信者だし、彼らは文句を言いつつ抜け出せないので、悪く言えば踏み石、良く言えば「改善要求を逐一出してくれるお客様」にしてしまうには丁度よかった。
もう1つは、そもそもCell普及の思想がおかしくないか、ということ。
なんでデジタル家電に搭載することを想定してるの?あんな発熱激しそうで消費電力多そうなのが、低電力志向一直線の薄型テレビとかHDDレコーダーに積めるか!いくら半導体部門とSCEが事実上、久夛良○さんの玩具箱だからって、誰か止めろよ、と思う。先に「量産効果があがらないだろう」って書いたのもここんところが根拠で、本気で量産効果上げたいんだったらもう少し売りつける先とか、範囲の経済とか考えると思うんだよね。というか、Cellの使い道はハイエンドPC以外に無いと思うんですよ。クリエイター、それも並列処理でバーンと映像とか動かしたい人たちに対して「This Is SON○」を見せつける好機だったと思うんだけど。そういう人たちに訴えかけるデザイン、機能美、そこから広げるコンシューマー層。という青地図は描けなかったのかなぁ。描けなかったとしたら、それは戦略不全とかいう問題ではなく戦略を立てている人間にファクトベースの情報がちゃんと行っていないんじゃないかなぁ。などということを考えています。

正直、最近自分の中ではアンチソニ○から○ニーシンパシーに変わっています。
もうなんか可哀想で見てられないので、頑張って再生して欲しい。
昔の「不具合の確率は10億分の1」という時代を思い返して欲しい。
デザインとかマーケティング云々より、本質的には技術的にいいものを持ってるんだから。
まぁ、壊れるしデザインが嫌いだしクセが強いから買いませんけどネ。これは個人的話。

 大古です。今日は12月2日、土曜日。
 今日発売された、次世代ゲーム機鼎立の最後の一角「Wii」についての日記は、任天堂を研究している木村氏にお任せするとして、私は今日から公開が始まった映画「カジノ・ロワイヤル」について語ります。経営史のゼミとはあまり関係ないかも知れませんが、一応最後で少し関連付けてます。日記投稿もあまり多くないですし、まあその辺はご愛嬌で。

 
 今日から、英国人スパイのジェームス・ボンドを主人公とした「007」シリーズの最新作「カジノ・ロワイヤル」の興行が日本で始まりました。今回の作品の話題は、5代目ボンドを務めたピアース・ブロスナンが降板し、新たなボンドを立てていることです。
 しかしそれにしては、「カジノ・ロワイヤル」はドタバタがあったにせよ、一応同じタイトルですでに映像化されているものであり、今回はリメイクです。新人ボンドの「襲名披露」に当たるわけだから、オリジナルでもいいので新作をあてがってあげるべきだったのでは?「ボンドが007になるまでの物語」というコピーも、何となく「逃げ」の発想が伺えるような気がします。


 さてこのシリーズ、今回で21作目だそうですが、上記事情を見ても分かるように、深刻なネタ切れの感があります。それもそのはず、原作となる一連の小説が書かれたのはソ連東ドイツが健在の大昔だから。東西の冷戦が華やかなりし(?)頃は、共産主義による世界革命を本気で信じていた人も多かったわけで、資本主義信奉国は深刻な危機感を抱いていたことでしょう。そうした世界環境の中では、東側の陰謀を食い止めるため西側のスパイが大立ち回りをやらかし、派手に活躍するのも、ある程度のリアリティがあって聴衆に受け止められたのだと思います。


 しかしソ連はとっくに崩壊して「鉄のカーテン」は消え、あまつさえEUなるヨーロッパの連合さえ成立して協調ムードが漂う昨今、ヨーロッパで活躍していたボンドに活躍の機会はあるのか?このあたりは、シリーズの存亡に関わる問題でしょう。少なくともヨーロッパを舞台にした作品は、かなり作りにくくなっていると思います。


 もうそろそろ限界だと思っても、長く続いてきたシリーズなので、おいそれと終わりにすることはできない。こうした自転車操業的な部分は、企業の論理にも当てはまる気がします。長く続いてきた従来の商品が時代に受け入れられなくなったら、ターゲットや訴求ポイントを変化させるのが定石。カローラ(フィールダー)が木村拓哉さんをCMに起用し、若年層の取り込みを図っているのと同じようなもんです。


 この論理を「スパイ映画」という市場に当てはめることもできそうです。翻って現在の世界情勢を見るに、英国スパイが諜報活動を行っていそうな国と言えば、中国やイスラム圏中東諸国あたり。ではそのターゲットに送り込むべき「商品」はと言えば、今度の新ボンドは金髪で碧い目の兄さんだとのこと。これが訴求ポイントなら、このセグメントには全くフィットしていないでしょう。これは目立って目立ってしょうがない。多分即刻共産党などの当局にしょっ引かれて取調べされ、スパイの用は成さないはず。初代ボンドのショーン・コネリーなら結構色黒で濃い雰囲気があったので、何とかなったかも知れませんが。
 純粋白人伊達男のボンドが潜入しても怪しまれず、なおかつ現地の数多の女性を引き付けることができるのは、ヨーロッパ諸国やアメリカ等に限られます。そして現在は、それらの地域よりも中国やイスラム諸国の方に陰謀の種や政治的問題は転がっていることでしょう。今度の新ボンドは人選としては、かなりアウトなのではないかと思えてなりません。


 「007」シリーズの製作チームを企業と同じように組織として捉えるなら、深刻な「戦略不全」に陥っているような気がします。



(「トラックバック」を読ませてもらってからの追加事項)
 こういうこともあるんですね。情報革命による洗礼を受けさせていただきました。小論文でも言われるように、ステレオタイプの当てはめはイカン、と。こうやって全く見ず知らずの人間の間でコミュニケーションが成立し、もしかしたら新たなアイデアや考え方が生まれるかもしれない意外性が、ウェブ2.0というやつの真髄でしょうか。しかしまあ、このようなジャンク日記も誰かの目に触れているかと思うと、滅多なことは書けませんな。

 
 さて、どのように反応すれば良いのか知らないので、とりあえずここに追記します。基本的には「言い訳」なんで、興味の無い方はすっ飛ばしてください。

 
 「トラックバック」を付けてくださった方のおっしゃるように、ソ連が崩壊して「敵」がいなくなったとは、私も全く思いませんし、そのように書いてもいません。また、「007」シリーズは西側陣営のプロパガンダでもないので、ソ連そのものを敵にして叩いている作品がほとんど無いことも基本的に承知しているつもりです。しかし、「ソ連」という異質なものが健在だったこと、東西のイデオロギー対立が存在していたことは、西側である英国のスパイにリアリティを付与する上では(それが直接攻撃の対象にならないにしても)重要だったのではないかと思います。そして、ボンドが活躍できる舞台としての冷戦という非常に分かりやすい構造が無くなったことで、その存在がやや浮いたものになってしまったのではないかと、思ったわけです。


 ただ、62年のキューバ危機以降、東西の対立は緩和され、急速に融和ムードが広がったと言います。加えて91年のソ連崩壊以降にもシリーズはたくさん製作されていることを考えると、事実は確かに、上で書いたほど単純化できるものではないということではありましょう。同時代性が無くイメージでしか語ることができない分野に関しては、沈黙するしか無いのかも知れません。要反省。

大古です。最近iPodのバッテリー寿命が尽きてきたようで、一日と持たずに電源が切れてしまうことがあります。自転車に乗りながらできることと言えば傘を差すのとiPodを聴くくらいしか無いので、快適なチャリンコ生活が脅かされております。自転車の車輪にダイナモを付けて、そこからiPodに充電する、という機械は無いものでしょうか。


それはさておき、私も経営史学会の手伝いをさせていただきました。やや遅きに失した感はありますが、せっかくの体験だったので、私も少し思ったことを書いてみようと思います。


私は教室の前方でタイムキーパーの仕事をしていたので、多くの発表を聴く機会に恵まれたのですが、「これは面白いな」と引き込まれた発表には、共通点があったような気がします。個人的には、それは「配布レジュメが簡明で分かりやすい」ことでした。
伝えたいことがたくさんあると、どうしても配布レジュメの量が多くなりがちです。自分の思っていることや思考のプロセス等を、全てだーっと並べて、文章の羅列にしてしまうことがあります。あるいは、資料は自分も見ながら発表するので、たくさん書いてあるレジュメは言いたいことの備忘録の役目も果たすのでしょう。
しかし、その発表に関して事前に全てを知っている発表者=自分と違い、発表を聞く人々はその半分、あるいはそれ以下の知識しかありません。だからプレゼンを聴く時は、配布レジュメを読んで理解するという作業と、発表者の言葉を聴いて理解するという作業を同時に課せられることになります。これは意外と重労働なのではないでしょうか。


プレゼンとは自分の主張を相手に伝え、何らかの説得を行う場である以上、文章を読んで理解する作業の負担は極力削減し、自分の言葉をより相手に響くように伝えることを優先すべきでしょう。だからレジュメは簡潔に短く、あっさりとしたもので十分、足りない分は口で補う、という発表が好ましいのではないかと、学会で発表を聴きながら考えていました。


もちろん、こういうことはけっこう常識なのかも知れません。しかし私は、ゼミの要旨のレジュメも小論文もブログも携帯のメールも、言いたいことを詰め込みすぎて冗長になってしまう傾向があるので、非常に危機感を持ってそのように思いました。


余った弁当は、家に持ち帰って姉弟にも分け、美味しくいただきました。

木村です

25〜26日は経営史学会が一橋大学にて開催されていました。
島本ゼミからも有志が手伝いのため馳せ参じました。
学会の内容を詳しく書くわけにもいかないので、雑感なのですが、最初で最後になるかもしれない学会は予想以上に面白かったです。特にアカデミックな話の構成の仕方もーもちろん報告者によって、報告のテーマや問いの立て方によって多種多様なのですがーオーソドックスな筋書きみたいなものが見えて、大いに参考になる要素がありました。あり筋が見えたというか「最低限でもこういうステップは踏む」というラインが見えたと言うべきなのでしょうか。とかく迷走気味な卒論執筆者としては、ガイドとなりうる指標を幾つか見つけられたのが良かったです。併せて、3年の早い時期にこういうプロによる刺激を受けられたら随分と後に役立っただろうなと悔しく思うところでもありました。入ゼミ研修で「手伝いと称して学会を覗きに行かせる」というのをやってもいいかもしれません。
とはいえ、実際卒論提出が目前に迫っているからこそ抱く感想なのかもしれないのですが…。


ところで、印象的だった話をうろ覚えながら挙げると:
「我々のレーゾンデートルは時間軸という要素をあらゆる個別の分析対象に持ち込むことで、今までブラックボックスとなっていた部分に光を当てることである」
「経営史は学際的な側面が非常に強いので『いろんな要素が効きました」と羅列するだけに留まるきらいもある。そうではなくて、諸要素+時間軸という流れの中で、最も効いている決め手を明らかにしなければならない」
というのがありました。
意外にカッコいいんですよ、経営史。