大古です。
二日前に「007」のシリーズの方向性等についていろいろと書いたわけですが、トラックバック付加以降に自分が書いた文章をもう一度読んでみると、脊髄反射気味でかなり見苦しいですな。言い訳や負け惜しみになるとかなり見苦しい文章になるので、控えた方が良さそうです。


さて、見苦しいと言えば、大学構内にニョキニョキ生えてるいちょうの木。あれを見てると、「うわあ、見苦しいなあ」と思いませんか?
何が見苦しいかって、私は12月になってからはまだ大学に行ってないのですが、11月末になっても黄色い葉っぱがたくさん付いていること付いてること。暦の上ではほとんど冬で紅葉の旬はとっくに過ぎたのに、葉っぱがまだ名残惜しく秋の色のままで、枝におめおめとくっ付いているのが何とも見苦しい。ぎんなんが臭いのは繁殖行為の一環だからいいにしても、葉っぱがいつまでも老醜をさらして残っているのは、違和感を覚えます。
私は大学に行くときに自転車を使っているので街路樹を毎日観察しますが、中には葉っぱがまだ緑色のいちょうさえあります。もちろん、日照時間の関係や暖冬の影響などもあって、葉っぱが散らないのはいちょうの本意ではないのかも知れませんが。まあ、温暖化等の影響で不可抗力であるにしても、見ている人間としては「もう冬なんだからさっさと散っちまえ」と思ってしまいます。


百人一首のかなり有名な歌に
「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀友則
 

と詠われているように、日本人は古くから、自然における美しいもの「そのもの」だけでなく、美しいものがいかに散っていくか(あるいは死んでいくか)という過程に注目し、その引き際も美しいものを愛でてきたように思います。代表格は桜ですね。夏なら蝉、秋なら紅葉が、多分そうしたものに該当しそうです。そうして潔く散っていく自然を尊ぶ姿勢が、無常観とかもののあはれと言った、日本人独特の価値観を生むことにも繋がったのでしょう。もちろん、桜や紅葉は散ったからといって、別に死ぬわけではありませんが。
桜や紅葉を日本人がことさらに大事にする理由を突き詰めて考えれば、その美しさからというのももちろんですが、「しづ心なく」散って行ってしまうものに深いシンパシーを感じ、儚い自分たちをそこに重ね合わせる、という部分の方が大きいのではないかと思います。裏を返せば、桜や紅葉のように美しいものであっても、いつまでも散らずに残っていたら疎ましく思えてしまうはずです。


この、「美しい(目立つ)けど引き際はあっさりとしていて、潔くさっさと散っていく」ものを尊ぶ風潮は、自然のみならず日本人の好きなものの多くに通底している要素である気がします。源義経織田信長石川五右衛門赤穂四十七士などの人物、そういえば「あしたのジョー」もそんな感じです。


ただ、最近の新聞などを見ていると、一時期もてはやされた人に、「引き際がどろどろしていて見苦しい」人が多い気がします。側近に粉飾決算の罪を全てなすり付け、自分は「知らなかった」で通そうとしている某IT企業の元社長とか、談合の罪を認めることになるからといって辞職でなく「失職」しようとしていた某知事とか。
こういう人たちは何となく、冒頭のいちょうの黄色い葉っぱに通じるものがあるような気がします。もう出番は終わったのにいつまでしがみ付いてるんだよ、って感じで。特にこの元社長は、一時期メディアの寵児となり、ものすごく輝いていた人なのだから、引き際も桜のようにすっぱりと、何のてらいもなく済ませてくれれば良かったのに、と思います。そうすれば、閉塞していた社会に閃光のように現れて、何かいろいろと既成概念をぶっ壊すようなことをしてから颯爽と去っていった稀有の人として、我々日本人の心に少なからず良い印象を残せたのではないでしょうか。そういう人こそ、まさに無常観を体現した存在として「美しい」のだと思います。


そこまで戦略を練った上で身の振り方を考えるのは、その人物にとっては「想定の範囲外」だったのかも知れませんが。