大古です。
あまり木村氏や私ばかりが投稿するのも良くないでしょうが、二週間以上更新がゼロなのも寂しい気がするので。


所用があり、府中の運転試験場に行ってきました。年末だからか非常に人手が多く、長蛇の列に並ぶ羽目になったのですが、それ以上に手続きの合間の待ち時間が長く、時間潰しのために持ち込んだ新書が途中で読み終わってしまうほどでした。
時間潰しと言えば、最近はいい大人と思しき年齢の方でも、次世代携帯ゲーム機を電車内や公衆の面前で出して遊んでいる姿をよく見かけます。ゲームもすっかり市民権を得たのだなあ、と感慨深いものがあります。私は両方とも持ってはいませんが、持っていたとしても恥ずかしくて外ではとても遊べなさそうです。


ところで、府中の運転試験場の入り口のすぐ側には、「献血車」が常時横付けされています。事務手続きの合間の暇な時間に、献血をされている方が結構多くいらっしゃいます。しかし「献血車」なので、施設としてはあまり整ったものではありません。医師の方と機械だけで、最低限の設備で稼動しています。
一方、新宿や有楽町にある、ビルの一室に作られた「献血ルーム」では、ハーゲンダッツのアイスは出るし、ソフトドリンクは飲み放題、お菓子も食べ放題、と至れり尽くせり。入浴剤などの景品までもらえる上、献血するとポイントが溜まっていきます。溜めると何がもらえるのかは、知りませんが。


両者の、我々消費者に対する態度には大きな温度差があります。新宿や有楽町の方は上記のように「何とか来て下さい」オーラが漂っていて、常に呼び込みのお兄さんが外で声を張り上げてますが、府中の方は、「献血に来たければ、どうぞご随意に」という感じ。ただ本来、献血という行為は我々にとってそれほど面白おかしくて快適なものではないので、前者の方が血の貰い手の姿勢としては理に適ったものでしょう。
府中の献血車が客引きあるいは「付加価値」の提供に積極的でないのは、冒頭で書いたような「時間潰し」の機能を多分に受け持っているからで、試験場付近には遊戯施設等が無いことと関係があると思います。「待ち時間暇だし、他にすることも無いし、たまには献血でもするか」という人は少なからずいるから、献血車としては、特に消費者にサービスする必要はありません。
しかし献血ルームの方は、付近に書店やCDショップなど、いくらでも時間を潰せる施設があり、消費者には膨大な選択肢があります。献血ルームは、他の無数の施設との「仁義なき戦い」、熾烈な競争に曝されている。よって、敢えて献血する、という行動を取ってもらうため、何らかのサービスを用意する必要があるのです。


・・・わざわざこんなことを書くのは、これがビジネスの世界と非常に似通ったケースと思ったからです。府中の献血車が上記のように比較的楽に血を集めることができるのは、それが「独占状態」にあるから。もし、試験場の付近にもっと楽しく時間を潰せる施設、例えばゲームセンターや、それこそブックオフなどができれば(そういう施設の建設はあの付近では制限されているのかも知れませんが)、献血車としては態度を改めざるを得なくなるでしょう。否応無く「時間潰し」機能を巡っての競争に放り込まれるからです。その時は、ハーゲンダッツや入浴剤の出番かも知れません。
同様の例をビジネスの世界に求めれば、フォードが該当するのではないかと思います。フォードが「欲しい色の車は何でも手に入る、ただしそれが黒ならば」という状況にあぐらをかいてて平気だったのは、市場が自社のほぼ独占状態だったからでしょう。GM等の登場と競争の導入によってそうも言ってられなくなったから、色を増やしたり多品種生産に切り替えたりして(遅れたけど)、企業体質のカイゼンに努めるようになったのだと思います。


それにしても、献血は現代の相互扶助体制の一環として、なかなか貴重な機会だと思います。我々現代人の少なからぬ部分が恐らく心の底では持っているであろう、ボランティアへの欲求、公への奉仕精神のごときものを、かなり手っ取り早く満たしてくれるからです。
明治初期、徴兵制を分かりやすく説明するため「血税」という言葉が作られたとき、人々は文字通り「国に生き血を吸われる」という意味だと勘違いし、暴動が起きたそうです。そうした真っ正直で極めて素朴な明治の人々と、自ら進んで血を提供している我々を比べてみると、かなり隔世の感があって面白いですね。


まあ、差し出した自分の血が何に使われるか知るすべはありませんが、もしかしたら交通事故で大怪我を負った人の命を救うことになるかも知れないし、血友病患者の助けになるかも知れません。それに、自分の血の健康状態も教えてもらえるので、献血は結構いい経験になると・・・思います。