大古です。また二週間近く更新が無いようですので、僭越ながら連続投稿をさせていただきます。


何か、売れてるみたいですね。メガマック。それも当初の予定を上回る爆発的な売れ行きだそうで。
ビッグマックにパティ二枚ぶち込んだだけの単純な商品なんて、二週間かそこらで販売打ち切りになるのではないか、なんて邪推してましたが。
連日売り切れで数量限定販売、完全に品薄の状態だそうですな。意外や意外です。私はすぐに店頭から消えるだろうと思ったから、早期のうちに一回食してみたのですが、こんな事態になるとは思いませんでした。最近迷走が続いてた日本マクドナルドとしては、久しぶりに好材料なのではないでしょうか?


しかし、こうした商品が流行るのを見るにつけ、「マーケット・リサーチ」なるものの難しさと言うか、奥深さに思いを馳せずにいられません。企業の人たちは、消費者のニーズを掴むためリサーチを繰り返し、日々優れた製品の開発にいそしんでいることと思います。その結果が「マック・グリドル」や「マック・グラン」なのでしょうが・・・一生懸命市場調査やR&Dを行い、「これだ!」と思うような商品を出しても、消費者にそっぽを向かれることは数知れず。
そこにきて、「メガマック」のヒット。こんなマーケティングのマの字も知らない小学生でも思いつくような、シンプル極まりない商品がブレイクするとはねえ。つくづく「消費者ニーズ」ってのは得体の知れない代物です。たぶん、誰にも一生理解できないものなのでしょう。


しかし、「メガマック」がヒットするのはいいですが、売り切れで消費者がどこに行っても買えないってのはいただけません。パティ用の牛肉が足りないならまだしも曰く「メガマック用の包装が足りない」とは・・・もうね、アホかと。馬鹿(ry
売り切れで販売機会を逸してしまうのは、小売業としては恥ずべきことではないでしょうか?いわゆるチャンス・ロスというやつです。しかも、日本マクドナルドのような、フード業界を代表する企業において・・・まあ、「売り切れ効果」がさらに話題を呼び、さらなる人気へと繋がるという「た○ごっち」みたいな現象は期待できなくもないですが。
偉そうに書きましたが、今後も庶民の味方として日本マクドナルドには頑張って欲しいと思うからこそです。


メガマック」は販売期間を当初の予定より延長するそうで。「スーパーサイズ〜」や「メタボリック症候群」のようなネガティブ・キャンペーンには屈せず、ファストフードの代表格として今後もトランス脂肪酸やアセチルアミドを撒き散らしてほしいですね。


まず、「ビッグマック」と普通のハンバーガー二個を買います。そして、ハンバーガーのパティを抜き取って「ビッグマック」に挿入すれば・・・あら不思議、現在プレミア付きで入手困難な「メガマック」の出来上がり。しかも一緒にケチャップとオニオン付きのバンズも四枚付いてくる!!!それだけ。

大古です。冬の寒さが身に染みますね。
今日、久しぶりに名前を間違えられ、「おおこてつ」と呼ばれました。何か、昔のファイ○ルファンタジーの武器の名前みたいだなあ・・・昔、日本の男子バレーの選手に同じ字で「おおこ」という方がいたようで、年配の方にはよくそのように間違えられます。小学生の時に引越しをしましたが、私の名前の文字の配列を見て、中国人だと勘違いした人もいたそうです。
寒いですね。


全く話題は変わりますが、最近迷走が続いている日本マクドナルドが、去年の「ピタマック」に続き、つい先日新製品を出しました。「メガマック」というやつです。そして本日、またまた新製品が出たようです。こちらは朝マックの商品ですが、「マックグリドル」という、バンズを今までと変えた、パンケーキ仕様のサンド。粗製濫造が続くと消費者の信頼を失いそうなもんだけど、こんなにボコボコ節操無く色々出してて大丈夫なのか、他人事ながら心配です。昨今のパンケーキブームを当て込んだものなのか?
ところでパンケーキと言うと、何となくバニラ・ファッジなどと一緒にアメリカの場末のダイナー(簡易食堂)で供されている図を想像します。アメリカのパンケーキは、「ケーキ」のくせにしょっぱい上、日本のと違ってぺらぺらとしており、子供心にショックを受けた記憶があります。


マックグリドル」とパンケーキの方はひとまず置いといて、今日は新製品の片割れである「メガマック」を食してみました。よって、「島本ゼミの山岡士郎」こと(誰も呼んでないが・・・)私大古が、感想など書いてみます。
メガマック」は、従来の「ビッグマック」にパティを二つ差し込んで四枚にして、かさを増しただけ。単純な親亀小亀的発想の商品です。小学生でも思いつきそうなモンです。ネーミングもすさまじく安直です。パティが六枚になった「ギガマック」が出たら面白いですな。素材は、バンズもパティもチーズも独特の黄色のすっぱいソースも、全て同じ。だからビッグマックが好きな人は美味しいと感じるでしょう。
私は、数年前まで毎年秋限定で出ていた「かるびマック」と、日本マクドナルドが一時期高級路線を目指していたときの「マックグラン」が結構好きだったんですが、この二商品は復活してくれないのでしょうか?


メガマックは大きくなってる分、ボリュームが増え、多少食べづらくなってます。片手で食べようとすると間違いなく手が汚れます。胃袋の小さい私にとっては、これで十分「スーパーサイズ」と言った趣でした。と言っても、三十日間こればっかりを食べ続ける気にはなりませんでしたが。

木村です。

ちょっとしたことなんですが、個人的に大ニュース。
任天堂の今期業績見通しが売上高9000億、経常利益は2100億だとか。
前年比、売上高は180%で利益は120%くらいですね。
昨今の方向として、増収増益は控えめに発表するようなので、もしかすると1兆ギリギリくらいなのかもしれませんが。それにしても、DSパワーは凄いなぁと改めて思いましたよ。
…まぁ卒論の内容を詰めてからこういう発表をされると自分が書こうとしていたことと必ずしも整合性がとれない(主に利益率とか)ので、基本的には見なかったことにしようと思います。それにしても夏頃周囲に「任天堂株買っとけ、アナリストなんてゲームのことがわからないから今の程度になってるけど、絶対に上がるから」と言っていた自分は、ワリとなかなかなのかもしれません。やっぱり株とかやるなら自分が好きな分野でやれ、ってことですかね。
え?自分は買ったのかって?
そもそも初期投資する資金がありませんでしたorz高いんですよ、任天堂株。

大古です。明けましておめでとうございます・・・って、もう七草がゆの日も終わって、もうすぐ鏡開きですか。時間が経つのは早いですね。少年老いやすく、学成りがたし。お年玉はありがたし・・・
まあ、僭越ながら先日の木村氏の発言に応えさせていただけば、「あけおめ、ことよろ」という言い回しはウェブ辞書に登録されるほど市民権を得てしまった言葉のようです。私が怒ったところで何にもなりませんな。
ただ、「明けましておめでとうございます」という決まりきった正式かつ定型の挨拶があるのに、わざわざ省略してその意味をぞんざいに扱うのはなぜなのか?この辺は私の理解を越えるところです。スマップの木村拓哉さんは、自分の名前が勝手に省略されて、「キムタク」という愛称がまかり通っているのが嫌いだとのことですが、それと同じようなもんではないだろうか・・・?「トヨエツ」とか「バンツマ」とか、自分の名前が省略されて呼称になって、あんまりうれしい人はいないでしょうからね。


ところで、木村氏の卓見にもかかわらず、最近のニュースは例の歯学部志望予備校生の妹殺し事件で持ちきりですね。それだけショッキングな出来事だったということでしょうが、個人的に注目したいのは、その報道のされ方です。メディアで口を揃えて言われているのが、「受験で三回失敗した」、「一生懸命勉強していたのに、無駄だと言われた」、「夢が無いと悪口を言われた」といったような内容。容疑者もかわいそうだ、と擁護するようなニュアンスがあり、被害者にも責任の一旦があったかのような論調です(死者を貶める、とまでは行きませんが)。
私は当然ながら当事者ではないので、野次馬的に色々突っ込んだ話をするのは控えるべきでしょうが、あれだけ猟奇的な事件でも、容疑者の置かれていた状況やその心情を理解しようとし、ともすれば同情までするような日本の風潮。これはなかなか、独特なのではないでしょうか。


そのように考えるのは、最近米国の「CSI」というテレビドラマをよく観ているからです(ジョンは知ってるかも)。これは「Crime Scene Investigation」の略で、米国の警察に本当にある役職だそうです。事件現場(Crime Scene)に残された様々な証拠から、最新技術でDNA検査や指紋解析を行い、犯人を割り出して事件解決に導くプロの科学者集団のこと。日本で言えば、『新宿鮫』などにも登場した科警研が近そうです。
で、このドラマは、そのCSIの中でも殺人事件を専門に扱うチームの活躍を描いた、人気シリーズです。オリジナルはラスベガスが舞台ですが、現在まででマイアミ版、ニューヨーク版と二つのスピンオフ版が作られています。ドラマの内容としては、「古畑任三郎」や「刑事コロンボ」をもっとシリアスにして、犯人探しを非常に難しくしたような感じです。


このドラマを観ていると、米国人の犯罪者に対する考え方の一端が、何となく分かってくるような気がします。というのも、ドラマの正味50分くらいの間、48分くらい証拠探し、その分析、犯人探しに明け暮れているからです。犯人が分かり、自白も行うのは本当に番組の最後の最後。
当然、殺人という行為に至った動機の説明も極めてなおざりで、あっさりしています。「なぜ、コイツはここまで重大な犯罪を起こしたのか?また起こさざるを得なかったのか?」という問いにきっちりと答えることは、番組制作者の頭には無く、犯人を突き止めるまでの過程をいかに面白くするか、ということが主眼のようです。犯罪者はあくまで悪の存在とされていて、ほとんど何も考えずに人を殺しているような犯人も多い。
このような構成になっているのは、恐らく視聴者の要求であり、米国人の犯罪者に対する見方を反映したものなのでしょう。米国は正義と平等を重んじる国です。多少は憶測になりますが、「罪を犯したんだから、悪いヤツに決まってるじゃん。詳しい動機とかそいつの境遇とか、詳しく調べたって仕方ないよ」というような考え方、犯罪者=悪という図式が、デフォルトであるのではないでしょうか?


しかし、日本の同種のドラマは、大きな違いがあると思います。「なぜ殺したか」に焦点が置かれたものが実に多い。やむにやまれぬ状況、どうしようも無い境遇にあった人が、仕方なく相手を殺してしまう。言うなれば『高瀬舟』みたいな感じであり、西洋圏で描かれた『罪と罰』のような境遇(理由は説明されても)とは違います。刑事ドラマで、自分の殺人を告白した犯人に対して刑事がそれを諭し、以降長時間にわたってお涙頂戴モードになる作品は、非常に多いと思います。
私は刑事ドラマをほとんど観ないので、上記は多少イメージ先行ではありますが、私が愛読していた『金田一少年の事件簿』は、まさにそのような作品です。奇想天外な謎解きが終了し、犯人が判明した後も、その犯人がまた、自分の生い立ちと被害者の過去の悪事などの裏事情を滔々とよくしゃべるしゃべる。「婚約者を含む仲間と三億円を盗んだが、首尾よく終わったあと、分け前を増やすため婚約者を殺され、自分も殺されかけたので仲間に復讐する」とか、「優秀な奇術師だった母が弟子たちに殺され、しかも母の奇術トリックを全て盗まれたので弟子たちに復讐する」とか、凡人の想像力ではとても思いつかないようなすさまじいドロドロの怨念ストーリーを作り上げていました。被害者に対して「こんな悪人たちだったら殺されても仕方ない」と読者をして思わせるような構図でした。金のために人を殺す、ラスコーリニコフのような人間は、ほぼゼロ。


CSI」と『高瀬舟』ならびに『金田一〜』は、犯罪者という人々の扱い方という点では、対極にあると言えるでしょう。少ない材料から若干の考察をしてみますが、日本人は心の底で、本当の悪人などいない、と思っているのではないでしょうか?殺人という悪事を働いたのには、何かやむにやまれぬ事情があったからで、ある程度仕方が無かったのだと思いたい。判官びいきという言葉があるように、日本人は弱者や敗者、道を踏み外した人間に同情する傾向にあります。
だから、予備校生の事件のようなセンセーショナルな報道を目にすれば、どこまでも詮索したくなるのです。猟奇的事件の背後にある裏の事情や容疑者の境遇を詳しく調べることで、罪を犯した人も、本当にどうしようもない悪人ではないのだ、と思いたいのではないでしょうか?
 

ここ数日におけるこの事件の報道ヒートアップぶりをやや好意的に解釈するなら、上記のような感じになるでしょうか。まあ、ワイドショー的な好奇心のみで、事件をやたらと詮索するのは慎みたいものです。


ちなみに「CSI」は本当に面白いので、血が出るのが平気な方は一度ご覧になってはいかがでしょうか?

木村です。

不用意にあけおめ、とか、ことよろ、とか略すとオオフル部長に怒られる気がしますが、ここは敢えてチャレンジです。

卒論が終わりません。8分の1くらい終わりました。先が長いです。

正月に顔を合わせた従兄弟の息子(1歳ちょい)が可愛かったです。携帯を齧られました。何やっても許される年代ってのは、人間だれしもあるものです。まぁ何やっても可愛いから許したわけですが。


ところで年末年始の一番のニュースと言えば個人的にはフセインの処刑でした。
とうとう正義の名の下に殺されました。
あの戦争を通じて、世界はより平和にも、より安全にも、より民主的にすらなっていない。資源の偏在が解消され、安定供給がされるようになったわけでもない。当事者の米英、そして諸手を挙げて賛成した日本以下数カ国。これら戦犯国家では誰も責任を取らず、真相の究明もされず、独裁者1人が処刑され、無実の市民が多数殺され、とばっちりで派兵された数カ国の人々が死んだだけでした。

もちろん、戦争が経済政策と不可分の関係にあるのは古今東西変わりません。であるからこそ、正義や面子のために挙兵するのは愚策で、戦うならば勝たねばならないし、犠牲は少なく、ゲインは多くしなければならない。そもそも孫子の昔から、戦う前に戦わなくていいように手を尽くせ、というのが常識でした。戦争は無能なネゴシエーターが採る最終手段です。
ともかく、パパ・ブッシュから始まりフセイン処刑で一応終わったイラク派兵(まだまだ戦後フェーズは残ってますけど)ですが、それら諸原則が全く活かされない茶番でした。笑ったのは石油が高騰したおかげで空前絶後の利益を出した企業群と、軍需産業の方々くらいですかね。ブッシュが退任後に戦犯として裁かれれば少しは溜飲が下がる人も多いと思いますが、戦争を引き起こした歴代米国大統領が戦犯として裁かれた例がないので、きっと御咎め無しだと思いますけどね。考えれば考えるほど、マトモな神経の持ち主には理解し難い構図です。

ところで、ああいう「勝てば官軍」裁判に対して、一番アレルギー反応を示しそうなのは東京裁判で苦汁をなめさせられた日本だと思うのですが。どうも大手マスコミも政府筋も黙りを決め込んでいるようで。少なくとも、猟奇的な予備校生の凶行とか芸能人の色恋沙汰とかより、考えるべきテーマの多い出来事です。ま、下手にそういう主張をすると右翼扱いされたりしますが。コワイコワイ。


ということで、今年も一年、よろしくおねがいします。
あ、島本ゼミの人間がみんな新年早々こんな辛気くさいことばかり考えているわけじゃないですヨ?

空気も読まずに大古です。
今年もやってきましたね。日本人が一番好きな行事の日が。私もこの行事は嫌いじゃありませんが、悲しいかな子供らと一緒になって浮かれて騒ぐような歳も過ぎてしまったので、あまり明るくないテーマについて書きます。


毎年この時期になると思うのが、「24日、25日の二日間のために、一体何羽のにわとりが殺されるのだろう?」ということです。
たわむれに試算してみました。丸ごとのロースト・チキンのみで計算するならば、だいたい四人くらいで一羽を分け合う計算になるでしょう。そして、日本人の二人に一人がロースト・チキンを食べると仮定しても、1億2000万÷2÷4で1500万羽がたった二日のために消費されることになります。実際には品がだぶついて、誰の胃袋にも入らずに廃棄処分される商品も極めて多いでしょうから、少なく見積もっても2000万羽は死んでいることになるのではないでしょうか?極めてアバウトな推計ですが、それでも凄まじい数のにわとりが屠殺されていることは間違いありません。華やかなクリスマス劇の裏側では、東京の人口を超えるほどのにわとりの大量殺戮が行われているようです。
25日の夜8時過ぎあたりにスーパーなどに行くと、きれいに形が整えられたロースト・チキンが半額やら100円やらで投売りされている光景をよく見かけます。世が世なら夕飯の主役にだってなれたはずですが、ロースト・チキンという極めて「時事性」の高い食品に加工されてしまったばっかりに、そんなはした金で取引されるか、さもなくば廃棄されるという運命に置かれてしまったにわとりの無念を思うと、身中にこみ上げるものがあるような・・・。


さて、クリスマスの夜ににわとりを食べるという習慣は、当然ながらクリスマスそれ自体とは関係ありません。クリスマスとは、その名の通りキリスト教の開祖であるとされるイエス・キリストの生誕に関係しますが、その誕生日を祝うという名目でにわとりを食べるのではありません。
もともと、そのすぐそばの日付、12月22日あたりに毎年やってくる冬至を祝い(それ以降は日が長くなるから)、サトゥルヌスという農耕の神様を讃えるお祭りでした。春の到来と翌年の豊穣を期すため、冬の間節約して生かしておいた家畜を絞め殺して食べ、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをするという土着の風習がありました。その日とキリストの誕生日が近かったから、キリスト教お得意の「習合」を行って巧妙にその風習を取り込み、世俗的行事と神聖な宗教行事を合体させ、一大行事へと変貌させたわけです(細部は違うかも知れませんが、大筋こんな感じで正しかったはず)。クリスマスツリーに常緑樹を使うのも、自然の生命力に畏敬の念を示し、緑が早く復活するようにと祈っていた頃の名残です。


それからずーっと時代が下って、現在のクリスマスにおいては、にわとりを食べたりキリストの誕生日を祝ったりするだけでなく、プレゼントを贈ったり、カードを交換したり、ケーキを食べたり、シャンパンを飲んだり、と色々なことをする上、恋愛上の演出にも一役買うことになったため、本来は重要であったはずの宗教的な色彩は薄れつつあるようです。しかしこれも、クリスマスの出自を考えれば自然なことではあります。様々な風習が渾然一体となって(美○しんぼ風)、一つの行事を形成しているのがクリスマスというものの本質というか、元々の姿だからです。いつのまにかキリストに主役の座を追われたサトゥルヌスなんて、現在では土曜日や土星の名前でくらいしか我々の生活には残ってないし・・・


・・・まあ、何が言いたいかといえば、「最近のクリスマスは、商業主義に毒されている!」などと憤慨している方々も多いので、それはちょっと違うだろ、と言いたかったわけです。クリスマスは七夕やお盆、お正月などの行事と違い、極めて流動的で柔軟性に富んだ存在であり、神聖性と世俗性を両立したもの。宗教と経済のバランスが大きく変わった現在では、このような形を採るようになったのも自然なことでしょう。
経済が世の中の重大な関心ごととなっている現在、クリスマスが商業主義の発露となるのも仕方ない。今日の日本は、景気が回復しても個人消費が回復しない、という世相ですが、さて今年のクリスマス、年末商戦はどの程度の動きがあるのだろうか・・・?