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大古です。明けましておめでとうございます・・・って、もう七草がゆの日も終わって、もうすぐ鏡開きですか。時間が経つのは早いですね。少年老いやすく、学成りがたし。お年玉はありがたし・・・
まあ、僭越ながら先日の木村氏の発言に応えさせていただけば、「あけおめ、ことよろ」という言い回しはウェブ辞書に登録されるほど市民権を得てしまった言葉のようです。私が怒ったところで何にもなりませんな。
ただ、「明けましておめでとうございます」という決まりきった正式かつ定型の挨拶があるのに、わざわざ省略してその意味をぞんざいに扱うのはなぜなのか?この辺は私の理解を越えるところです。スマップの木村拓哉さんは、自分の名前が勝手に省略されて、「キムタク」という愛称がまかり通っているのが嫌いだとのことですが、それと同じようなもんではないだろうか・・・?「トヨエツ」とか「バンツマ」とか、自分の名前が省略されて呼称になって、あんまりうれしい人はいないでしょうからね。
ところで、木村氏の卓見にもかかわらず、最近のニュースは例の歯学部志望予備校生の妹殺し事件で持ちきりですね。それだけショッキングな出来事だったということでしょうが、個人的に注目したいのは、その報道のされ方です。メディアで口を揃えて言われているのが、「受験で三回失敗した」、「一生懸命勉強していたのに、無駄だと言われた」、「夢が無いと悪口を言われた」といったような内容。容疑者もかわいそうだ、と擁護するようなニュアンスがあり、被害者にも責任の一旦があったかのような論調です(死者を貶める、とまでは行きませんが)。
私は当然ながら当事者ではないので、野次馬的に色々突っ込んだ話をするのは控えるべきでしょうが、あれだけ猟奇的な事件でも、容疑者の置かれていた状況やその心情を理解しようとし、ともすれば同情までするような日本の風潮。これはなかなか、独特なのではないでしょうか。
そのように考えるのは、最近米国の「CSI」というテレビドラマをよく観ているからです(ジョンは知ってるかも)。これは「Crime Scene Investigation」の略で、米国の警察に本当にある役職だそうです。事件現場(Crime Scene)に残された様々な証拠から、最新技術でDNA検査や指紋解析を行い、犯人を割り出して事件解決に導くプロの科学者集団のこと。日本で言えば、『新宿鮫』などにも登場した科警研が近そうです。
で、このドラマは、そのCSIの中でも殺人事件を専門に扱うチームの活躍を描いた、人気シリーズです。オリジナルはラスベガスが舞台ですが、現在まででマイアミ版、ニューヨーク版と二つのスピンオフ版が作られています。ドラマの内容としては、「古畑任三郎」や「刑事コロンボ」をもっとシリアスにして、犯人探しを非常に難しくしたような感じです。
このドラマを観ていると、米国人の犯罪者に対する考え方の一端が、何となく分かってくるような気がします。というのも、ドラマの正味50分くらいの間、48分くらい証拠探し、その分析、犯人探しに明け暮れているからです。犯人が分かり、自白も行うのは本当に番組の最後の最後。
当然、殺人という行為に至った動機の説明も極めてなおざりで、あっさりしています。「なぜ、コイツはここまで重大な犯罪を起こしたのか?また起こさざるを得なかったのか?」という問いにきっちりと答えることは、番組制作者の頭には無く、犯人を突き止めるまでの過程をいかに面白くするか、ということが主眼のようです。犯罪者はあくまで悪の存在とされていて、ほとんど何も考えずに人を殺しているような犯人も多い。
このような構成になっているのは、恐らく視聴者の要求であり、米国人の犯罪者に対する見方を反映したものなのでしょう。米国は正義と平等を重んじる国です。多少は憶測になりますが、「罪を犯したんだから、悪いヤツに決まってるじゃん。詳しい動機とかそいつの境遇とか、詳しく調べたって仕方ないよ」というような考え方、犯罪者=悪という図式が、デフォルトであるのではないでしょうか?
しかし、日本の同種のドラマは、大きな違いがあると思います。「なぜ殺したか」に焦点が置かれたものが実に多い。やむにやまれぬ状況、どうしようも無い境遇にあった人が、仕方なく相手を殺してしまう。言うなれば『高瀬舟』みたいな感じであり、西洋圏で描かれた『罪と罰』のような境遇(理由は説明されても)とは違います。刑事ドラマで、自分の殺人を告白した犯人に対して刑事がそれを諭し、以降長時間にわたってお涙頂戴モードになる作品は、非常に多いと思います。
私は刑事ドラマをほとんど観ないので、上記は多少イメージ先行ではありますが、私が愛読していた『金田一少年の事件簿』は、まさにそのような作品です。奇想天外な謎解きが終了し、犯人が判明した後も、その犯人がまた、自分の生い立ちと被害者の過去の悪事などの裏事情を滔々とよくしゃべるしゃべる。「婚約者を含む仲間と三億円を盗んだが、首尾よく終わったあと、分け前を増やすため婚約者を殺され、自分も殺されかけたので仲間に復讐する」とか、「優秀な奇術師だった母が弟子たちに殺され、しかも母の奇術トリックを全て盗まれたので弟子たちに復讐する」とか、凡人の想像力ではとても思いつかないようなすさまじいドロドロの怨念ストーリーを作り上げていました。被害者に対して「こんな悪人たちだったら殺されても仕方ない」と読者をして思わせるような構図でした。金のために人を殺す、ラスコーリニコフのような人間は、ほぼゼロ。
「CSI」と『高瀬舟』ならびに『金田一〜』は、犯罪者という人々の扱い方という点では、対極にあると言えるでしょう。少ない材料から若干の考察をしてみますが、日本人は心の底で、本当の悪人などいない、と思っているのではないでしょうか?殺人という悪事を働いたのには、何かやむにやまれぬ事情があったからで、ある程度仕方が無かったのだと思いたい。判官びいきという言葉があるように、日本人は弱者や敗者、道を踏み外した人間に同情する傾向にあります。
だから、予備校生の事件のようなセンセーショナルな報道を目にすれば、どこまでも詮索したくなるのです。猟奇的事件の背後にある裏の事情や容疑者の境遇を詳しく調べることで、罪を犯した人も、本当にどうしようもない悪人ではないのだ、と思いたいのではないでしょうか?
ここ数日におけるこの事件の報道ヒートアップぶりをやや好意的に解釈するなら、上記のような感じになるでしょうか。まあ、ワイドショー的な好奇心のみで、事件をやたらと詮索するのは慎みたいものです。
ちなみに「CSI」は本当に面白いので、血が出るのが平気な方は一度ご覧になってはいかがでしょうか?