空気も読まずに大古です。
今年もやってきましたね。日本人が一番好きな行事の日が。私もこの行事は嫌いじゃありませんが、悲しいかな子供らと一緒になって浮かれて騒ぐような歳も過ぎてしまったので、あまり明るくないテーマについて書きます。


毎年この時期になると思うのが、「24日、25日の二日間のために、一体何羽のにわとりが殺されるのだろう?」ということです。
たわむれに試算してみました。丸ごとのロースト・チキンのみで計算するならば、だいたい四人くらいで一羽を分け合う計算になるでしょう。そして、日本人の二人に一人がロースト・チキンを食べると仮定しても、1億2000万÷2÷4で1500万羽がたった二日のために消費されることになります。実際には品がだぶついて、誰の胃袋にも入らずに廃棄処分される商品も極めて多いでしょうから、少なく見積もっても2000万羽は死んでいることになるのではないでしょうか?極めてアバウトな推計ですが、それでも凄まじい数のにわとりが屠殺されていることは間違いありません。華やかなクリスマス劇の裏側では、東京の人口を超えるほどのにわとりの大量殺戮が行われているようです。
25日の夜8時過ぎあたりにスーパーなどに行くと、きれいに形が整えられたロースト・チキンが半額やら100円やらで投売りされている光景をよく見かけます。世が世なら夕飯の主役にだってなれたはずですが、ロースト・チキンという極めて「時事性」の高い食品に加工されてしまったばっかりに、そんなはした金で取引されるか、さもなくば廃棄されるという運命に置かれてしまったにわとりの無念を思うと、身中にこみ上げるものがあるような・・・。


さて、クリスマスの夜ににわとりを食べるという習慣は、当然ながらクリスマスそれ自体とは関係ありません。クリスマスとは、その名の通りキリスト教の開祖であるとされるイエス・キリストの生誕に関係しますが、その誕生日を祝うという名目でにわとりを食べるのではありません。
もともと、そのすぐそばの日付、12月22日あたりに毎年やってくる冬至を祝い(それ以降は日が長くなるから)、サトゥルヌスという農耕の神様を讃えるお祭りでした。春の到来と翌年の豊穣を期すため、冬の間節約して生かしておいた家畜を絞め殺して食べ、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをするという土着の風習がありました。その日とキリストの誕生日が近かったから、キリスト教お得意の「習合」を行って巧妙にその風習を取り込み、世俗的行事と神聖な宗教行事を合体させ、一大行事へと変貌させたわけです(細部は違うかも知れませんが、大筋こんな感じで正しかったはず)。クリスマスツリーに常緑樹を使うのも、自然の生命力に畏敬の念を示し、緑が早く復活するようにと祈っていた頃の名残です。


それからずーっと時代が下って、現在のクリスマスにおいては、にわとりを食べたりキリストの誕生日を祝ったりするだけでなく、プレゼントを贈ったり、カードを交換したり、ケーキを食べたり、シャンパンを飲んだり、と色々なことをする上、恋愛上の演出にも一役買うことになったため、本来は重要であったはずの宗教的な色彩は薄れつつあるようです。しかしこれも、クリスマスの出自を考えれば自然なことではあります。様々な風習が渾然一体となって(美○しんぼ風)、一つの行事を形成しているのがクリスマスというものの本質というか、元々の姿だからです。いつのまにかキリストに主役の座を追われたサトゥルヌスなんて、現在では土曜日や土星の名前でくらいしか我々の生活には残ってないし・・・


・・・まあ、何が言いたいかといえば、「最近のクリスマスは、商業主義に毒されている!」などと憤慨している方々も多いので、それはちょっと違うだろ、と言いたかったわけです。クリスマスは七夕やお盆、お正月などの行事と違い、極めて流動的で柔軟性に富んだ存在であり、神聖性と世俗性を両立したもの。宗教と経済のバランスが大きく変わった現在では、このような形を採るようになったのも自然なことでしょう。
経済が世の中の重大な関心ごととなっている現在、クリスマスが商業主義の発露となるのも仕方ない。今日の日本は、景気が回復しても個人消費が回復しない、という世相ですが、さて今年のクリスマス、年末商戦はどの程度の動きがあるのだろうか・・・?