大古です。
 最近めっきり涼しくなってきたので、チャリンコ族には過ごしやすい限りです。

 
 今日は卒業アルバム用の個人写真撮影の最終日ということで、西生協隣の学生会館一階で撮ってもらって来ました。せっかくの記念なので・・・というところです。しかし、アルバム用の写真だからてっきり真顔で撮るのかと思ったら、あにはからんや、カメラマンの方に「歯が見えるほど笑ってください」と言われました。

 
 昔からけっこう疑問に思ってはいたのですが、何で写真を撮る時って笑顔にならなければならないんでしょうか?
 真顔よりも笑顔の方がその人間が魅力的に見えるのかもしれません。それは確かに頷けるところです。しかし「1たす1は〜?」などと言われて、半ば強制された形で生まれた笑顔は真の笑顔ではありません。その場合、魅力的というよりは、どちらかと言うと滑稽な顔になってしまうのではないでしょうか?私に限った現象かも知れませんが、人前で「笑顔になろう」と思うと、構えてしまうことがあります。


 今でこそ各種テレビ番組をはじめ、巷には笑いが溢れていますが、基本的に日本古来の価値観では、男性はあまり感情を表に出さず高倉健のごとく寡黙であることが美徳とされていました。笑いは感情の発露としては最も低劣な部類と考えられていたようで、男性は「三年に一度だけ、片頬をピクリと上げて笑う(ような顔をする)」程度が望ましいとされていたというのは有名な話です。
 もしかしたら、自分はそのようないにしえの朴訥な日本男児的心性の持ち主なのかも知れません・・・が、だからと言って写真撮影の時に笑顔を作れないことを正当化できるわけではなさそうです。ゼミの人々からも「ぶっきらぼうだ」と言われたこともあるので、感情をあまり表出させないのは、現代的な人間関係上はマイナスですね。高倉健のように男前指数が一定以上ならば「寡黙」で通りますが、そうでない男性は「ネクラ」という不名誉なレッテルを貼られる危険性があるので十分注意しなければなりません。


 まあ、何を言いたいかというと・・・特段言いたいことがあるわけではないのですが、全くの他人とならばいざ知らず、ゼミの仲間とは、大口を開けて大笑いし喜びを共有できるような関係を築きたいものですね。


 写真の話とは関係ないですが、学生会館のあの建物はいいですね。あの汚さと雑多な雰囲気は、何となく理科の実験室を想起させます。学生のエネルギーのほとばしりが感じられます。あのごみごみした場所から学部を越えた人間同士の間で化学反応が起こり、思ってもみなかったような新しい価値観や思想体系が生まれてくるような雰囲気がありませんか?言ってみれば、企業における「大部屋」のような機能を果たしている気がします。